スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

月刊 吉田隼人 2月号:雪が降ったら傘をささねばならない(のか?)

雪に傘、あはれむやみにあかるくて生きて負ふ苦をわれはうたがふ(小池光『バルサの翼』)


 雪の日に雪の名歌が思い出されるのは当然のことだ。むしろ真夏の日差しのさなか、唐突な啓示のように響きわたる一首こそ、真に雪の名歌と呼ぶに値する。
 僕にとってこの一首がまさにそれだった。「名歌」といって紹介されたのは大学に入ってすぐだったが、そのときは別にさしたる感動もなく字面だけを眺めて終わった。それが二十歳の夏。晩冬を舞台にした能の《求塚》を観終えて、冷房の効いたうすぐらい講義室を出ると、一気に炸裂する白い真夏の光。映像の中の能舞台に確かに融け残って見えていた残雪は、もちろん焼けつくような初夏のキャンパスのどこにも見当たらなかった。その落差と暑さとまぶしさとにくらくらと目眩を起こしながら、そのとき僕の頭蓋の中には確かにこの歌がガンガンと響きわたっていたのだ。「雪に傘、」「雪に傘、」「雪に傘、」……。

 「雪に傘、」。異様なそっけなさである。一首中に具象物らしい具象物はこれしかない。しかしこのあまりに普通な名詞二つを「に」という助詞で連結し、そのあとに読点をひとつ打つというそれだけのことで、どれだけ豊かな空間が立ちあげられていることか。
 「雪に傘、」だからこそ空間が立ち上がるのであって、これはもちろん「傘に雪、」では絶対にいけない。雨傘の黒い表面に雪の結晶がちりばめられるミクロな情景もそれはそれで魅力的だろうが、そこに冬という空間は立ち上がらない。「雪に傘、」。降りしきる粉雪に向けて傘をさしむける。白く茫洋とかすんだ雪雲の空に向けて、あるいは降ったそばからぐずぐずと融けて雪が水になった地面に向けて、突き刺すように傘をさしむけ、それがばさっと音を立てて花のように開く。
 「雪に傘、」。「梅に鶯」。「糠に釘(ん?)」。花札か浮世絵か、あまりに当然のとりあわせ。一個の傘が雪空に向けて開く垂直的な空間は、しかし浮世絵や花札の絵柄のようにどこか平面的に眺められてもいる。どこがどうねじくれたのか、三次元的空間と二次元的空間とがつながってしまっている。他のジャンルではなかなか難しい、短歌ならではの空間の立ち上げ方である。僕はどこにいるのか。傘はどこで開くのか。
 「雪に傘、」。手術台の上の蝙蝠傘とミシンではない。当然のとりあわせ。雪が降っているのだ。傘をささずにいてどうする。「雪はまひるの眉かざらむにひとが傘さすならわれも傘をささうよ(塚本邦雄『感幻樂』)」。あの塚本でさえがこうなのだ。雪の日に傘をさしているのはあなた一人だけではない。僕ひとりだけでもない。この冬の空間に、傘は無数に開いている。その傘を咲かせているのは誰なのか。無数の傘を咲かせるのは誰だ。無数の人々。顔の見えないあまりにもたくさんの人間たちが、それぞれに実存し、雪に向かって傘をさしているのだ。それはそうだろう。雪が降っているのだから。傘をささねばならない。「ひとが傘さすならわれも傘をささうよ」。そうだ。人間の存在なんて、共同存在なんて、共存なんて、そんなものだ。雪が降ったら〈ひと〉が傘をさすのだから、〈われ〉もまた傘をささねばならないのだ。

 無数の、顔の見えない〈ひと〉たちが「雪に傘、」をさしむける。無数の傘が、傘だけが、開いていく。開いてはどこかへ向かって進んでいく。雪の日に傘をさしているのは、傘をさしてまで行かねばならない場所がどこかあるからだ。その場所に向けて、無数の傘が開かれ、進んでいく。そして開かれた無数の傘は、その先端を差し向けられて無数の粉雪をちらつかせる白く薄明るい曇天は、そしてどこかを目指して雪のさなかに歩いていく無数の〈ひと〉びとは、「あはれむやみにあかる」いのである。
 あはれ。むやみに。あかるくて。「雪に傘、」と「生きて負ふ苦」に挟まれて、このひらがなの連打はなるほど「あはれむやみにあかる」い。ただ明るいのではない。「あはれ」に「むやみ」に明るいのだ。
あはれ! それは嘆息である。言語化される以前の、何かよくわからない、どうしようもない感情の湧出が「あはれ」となって口から溢れてしまう。その向かう先は美でもあろうし、悲哀でもあろうし、人間にはどうにもできない不条理でもあろうし、代わり映えのしない日常でもあろう。要するに「雪に傘、」への「あはれ」である。そこに読者が聴く音は――少なくとも真夏のあの日、僕の頭蓋の中に響いた音は――「アワレ」であると同時に「アハレ」でもある。あるいは「アファレ」でもあったかも知れない。「ハ」という、「ファ」という、「は」という、抗いようもなく〈われ〉の口から漏れ出てしまった息の音。そのア段の音はそのまま「あはれむやみにあかるくて」と転調しながら、ラ行・マ行・ヤ行・カ行といったアクセントになる音でうねり、流れを変えられながらも、異様な明るさへと展開していく。
 そして「むやみに」明るいのだ。無闇。それは明るいであろうよ。闇が無いのだから。どこもかしこも明るいのである。どこかに闇があってもよさそうなものだが、どこを見ても明るいのである。なにせ今日の雪はどこにでも降りそそぐのだから。その雪をめがけて、雪を降らせる白くほの明るい空をめがけて、傘をさした無数のひとびとは無闇と明るいそのなかで、無数の行き先へと向かうのだから。「むやみに」明るいのでは、もうどうしようもない。むやみに眠いときも、むやみに泣けてくるときも、むやみに銃を乱射しているときも、たいがい「むやみ」なときはもう、どうしようもないのだ。たいてい「むやみに○○しないでください」と言われるのは、多くの場合「むやみ」はどうしようもないがしかし禁止しなければならないものだからだ。「むやみにあかる」い人というのも困りものだろう。ただ明るいだけでは済まないという気がする。下手すればそれはもはや病気である。
 そんなわけで「むやみにあかる」いのはなるほど困りものなのだが、しかし、「むやみ」である以上どうしようもない。ハイデガー流にいえば存在の本質さえ開示されてしまうような、そんな異様なあかるみである。そんな異様な「あはれむやみにあかるくて」の中で、〈ひと〉も〈われ〉ももちろん僕等も、雪に向かって傘をさすのである。それが人間の存在なのだ。あはれ、どうしようもない。

 その、どうしようもない明るさの中で、〈われ〉は「生きて負ふ苦」を疑ってしまう。仕方ないだろうよ。むやみにあかるいんだもの。どこにも闇がないのだ。その明るみのなかで無数に傘をさして無数の行き先に向かう無数の〈ひと〉びとの、その全てが一個一個の実存であって、ひとりひとりがその「人生」とやらを、すなわち背後霊のような「生きて負ふ苦」を――あるいは二宮金次郎像の薪のように「生きて負ふ苦」を「負ふ」ているなんて、とても信じられないでしょう。それは「生」すなわち「苦」に違いないだろうけれど。でも、傘をさして道をゆく、あの〈ひと〉も、この〈ひと〉も、みんな〈われ〉と同じように「生きて」いるし、「苦」を背負っているなんて。そんなことを考え始めると気が変になりそうだ。そこにも、ここにも、あそこにも「生きて負ふ苦」がひしめいている筈があってたまるか。だって、こんなに明るいのに!
 疑うがいい。存分に、気の済むまで「われはうたがふ」がいいよ。今日は雪が降って、こんなに明るいのだもの。その明るい雪に向かって開かれている傘たちの、それぞれの下にひとつひとつの「生」が、ましてやひとつひとつの「生きて負ふ苦」が隠されているとは到底思えない。こうして傘をさしている一人たる〈われ〉だって、こんな「無=闇」な明るさの中では、「苦」としての「生」を負わされているような気がしなくなるだろう。
 疑うがいいよ。疑って、疑って、疑いぬくがいいよ。たぶん同じような雪の降る日に暖炉の前で、恐らくこれまで人類が誰もしたことがなかったというぐらい徹底的に「生きて負ふ苦」を、「生」を、「雪」を、「傘」を、「傘をさす〈ひと〉」を、「われ」を、あらゆるものを疑ってみせた或るフランス人青年の手にかかっても、その「うたがふ〈われ〉」――それをのちの人々はラテン語でコギトと呼んだのだけれど――だけはどうしようもなく根雪のように消残(けのこ)ってしまうのだから。そして消残った雪が薄汚れていくように、疑っていた〈われ〉もいずれまた「生=存」の、すなわち「生きることと存在すること」の苦痛に汚されていくのだから。

 かくて、異様な「むやみ」な明るさのさなかに晒されても、雪が降ったら〈ひと〉は誰もが傘をさす。それは生存の苦痛を一瞬でも疑義に付してしまうような「あかるさ」でもあるのだけれど、しかし同時に「生きて負ふ苦」そのものでもあるのだ。雪の中で傘をさしている〈ひと〉は、行かねばならない行き先があるから、しかし雪に直接降られてしまったら風邪をひくかも知れないから(これも「生きて負ふ苦」だ)、面倒だなぁとか重いなぁとか嵩張るなぁとか思いながらも、こうしてみんな仕方なく傘をさして歩いている。幻を感じることで樂をかなでる、などという大仰な題名を歌集につけたあの魔王のような塚本邦雄でさえが「雪はまひるの眉かざらむに」と無用者の美へと未練を残しつつも、しかし「ひとが傘さすならわれも傘をささうよ」と、多数派の〈ひと〉の中に埋没していったではないか。やはり雪が降ったら傘をささねばならない。それこそがわれわれ人間の「生きて負ふ苦」である。
 しかしそんな「生きて負ふ苦」そのもののような、雪の日に傘をさして道をゆく〈ひと〉びとはどうしようもなく正しいのだけれど、そのどうしようもない正しさを〈われ〉に疑わせてしまうほどに今日はあかるいのだ。「むやみ」な明るさのなかで、人間の「雪が降ったら傘をささねばならない」というどうしようもない正しさは懐疑に晒される。たとえそれが「あはれ」という嘆息の間に過ぎない、一瞬の、今日の雪のように降ったそばから消えてしまう、はかない疑いだったとしても。

 人間の「生きて負ふ苦」を、「雪が降ったら傘をささねばならない」というどうしようもない正しさを、この異様なあかるみのなかで「雪が降ったら傘をささねばならない、のか?」と疑ってしまう〈われ〉の当惑した姿は、正しくどうしようもない人間の存在そのものである。(了)

コメントの投稿

非公開コメント

メニュー
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。