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月刊 吉田隼人 3月号:おっぱいから皮膚へ

おっぱいのせいで内面的なものがうまれくる ここ ここにも皮膚が
(山中千瀬「さよならうどん博士」『早稲田短歌41号』)


 おっぱいを指す表現はあまりに多い。多いのだけれど、そこには何か同じ意味=方向性があるようでもある。それはたとえば女性性の象徴であり、女性の身体性の突端であり、豊饒の象徴であり、男性の欲望を一手に引き受けるとともにそれを反照しもする対象aであり、あらゆる哺乳動物の生命の源であり、単に重くてかさばる脂肪の塊である。

 かつてこの山中を発端に、学生短歌会の一部関係者がツイッター上で「おっぱい短歌」と称する馬鹿騒ぎを起こしたことがあって、古今東西さまざまな歌人の「おっぱい」や「乳房」を詠んだ歌が次々に紹介されたのだが、基本的にどの歌も上記の問題系に回収されうるというか、少なくとも同じ地平の上に位置していた。喪失されることで迫りくる死の、そしてそれまでの人生における女性性の象徴としてあらわれてくる中城ふみ子の「乳房」にしても、高い象徴性の中で隠喩や換喩といった言葉のハイパーリンクの網の目に回収された塚本邦雄や水原紫苑の「乳房」にしても、与謝野晶子あたりから始まる「おっぱい短歌」の座標空間の中で(負の領域を措定すれば)その位置をおよそ確定できるだろう。
 世代的に山中と近しい『町』の歌人たちに目を向けると、言葉を加速させることでどこまでも重みを引き揚げていく瀬戸夏子の「相思相愛おめでとう ミュージック・オブ・ポップコーンおよびバラバラ死体のケーキが乳房」だったり、言葉と具体的事物とのあいだの境界を意図的に曖昧化することで日常通用の言葉を失効させる望月裕二郎の「ねがいから鼻をとおしてなあ牛よおっぱいはここであっているのか」など、単純な身体の問題系から離れた「おっぱい/乳房」が見られないことはない。それでも、結局そこで問題になっているのは言葉としての「おっぱい/乳房」であって、その意味でここにある「おっぱい」は塚本・水原ラインの延長線上に捉えてもよさそうだ。

 ここに来てようやく山中の掲出歌に至るのであるが、ここで試みられているのは「おっぱい」の身体性/言語性の問い直しという、こう言ってよければ「おっぱい短歌のコペルニクス的転回」のような作業である。
 「おっぱい」には生・性・死・愛といった過剰な意味が負わされていき、さらにそこに比喩という言語的問題が重ねられることでいよいよ「おっぱい」は重みを増していく。その動きに対する性急な反動として瀬戸や望月のいう「乳房」や「おっぱい」は意味を一気に奪い去られることで異常に軽量化され、もはや「おっぱい」「乳房」という文字だけがそこにあるようですらある。重すぎるおっぱいも軽すぎるおっぱいも不便なだけだ、とでも言わんばかりに、山中は「おっぱい」にまつわる過剰な意味付けのプロセスそのものを問題化することで、短歌の文脈に「おっぱい」を回収しなおそうとしているのだ。

 山中には「おっぱいの役割は〈やわらかい〉だけでいい 夏服の白のやさしさ」という作もあるが、このあたりまさに先行する「おっぱい短歌」への宣戦布告といった観がある。掲出歌にせよこの歌にせよ、山中が「おっぱい」を詠みこもうとすると決まって歌の方が字足らずになってしまうというような印象を受けるのだが、これもひょっとすると先行する歌人たちの手になる、安定した韻律を基盤とすることで短歌的対象としての「おっぱい」に様々な意味を負わせていくという一首のパターン化した手つきに対するアンチテーゼとしての意図が込められているのかも知れない。女性性なり母性なり男性の欲望なりその哀しさなり、何かしらの意味を負わされた「重いおっぱい」がある程度の安定性をもつのに対し、その意味を問い直されたうえで改めて別個の意味を担わされつつある山中の「おっぱい」は、どこか不安定なものに見えるのも当然であるだろう。

 かように役割の再措定をおこなうだけでは飽き足らず、山中はさらに「おっぱい」に意味や役割が付与されていくプロセスそのものを解体し、再構成してしまう。それが掲出歌である。
 身体性(あるいはそれを担わされた言葉)としての「おっぱい」に先行して、そこに負わされる意味や役割や思想や心情といった「内面」がある。短歌を作る上で主体となるのは「内面」の側であり、身体の一部位たる「おっぱい」はあくまで歌の中に取り上げられる客体にすぎなかった。
 そうした二元論的な構図をまず山中は逆転させ、「おっぱい」が原因となって「内面」が生じるという、因果関係の転倒をおこなう。とはいえ、それだけでは足りない。身体性だなんだと言っても、結局その身体を捉える「内面」が短歌においては圧倒的に優位を占めているという構図がある。結局、立場を逆転させたところで同じ二元論的構図に固執しているのには変わりないのであって、それでは「おっぱい」を既存の短歌的座標から解放することにはならない。

 そこで持ち込まれるのが「皮膚」である。「おっぱい」と「内面」を形成する、その二元論的構図を確定しようとする境界線。第一義的にはそれこそが「皮膚」である。しかしこの歌の中で捉えられる「皮膚」は境界線から境界面へと変貌を遂げていく。おっぱいと内面、身体と精神、客体と主体……といったものを裁断していく「線」から、それらを同じ平面上に等価に還元してしまう「面」へ。「おっぱい」も「内面」も、結局は「皮膚」という巨大な平面が折り畳まれたり重ね合わされたり皺になったり襞になったりすることで生じる、いわば小波のようなものであって、きわめて可変的なものである。
 さらに話を拡げてしまえば「おっぱい」も「内面」も、〈われ〉も〈世界〉も、全ては一個の巨大な「皮膚」の表面で生成されたり展開されたりする〈襞〉の変転にすぎない。およそ我々が境界線によって既に区分されてしまって変更が効かないと思い込んでいるありとあらゆる事物が、実はきわめて可変的で折り畳んだり展いたりできる同一平面上の〈襞〉だという、これはドゥルーズがライプニッツやフーコーの哲学、あるいはミショーなどの詩作品・絵画作品を読み解いていく過程で見出したコンセプトであるけれども、山中の短歌世界もおよそこうしたコンセプトのもとに成り立っているように思われる。

  (ぼくたちは全ての物語の模倣)雪の降る日に手をつないだの
  こわされるほうのかかりに任じられ少女たち、おそろいの夢たち
  カーテンとドレスはちがう 熟れていくからだに巻き付けたってちがうの
  ユリの花のめしべおしべおしべおしべ……なんでも溶かす水は理科室
  相似形の影を踏み合いこれからもあたしたちひとりひとりがひとり
  こっぱみじん みじんこ しんこうしば しばし待てば君よりの駅につきます
  あれは製紙工場の煙なんです。みんなが上に行く用でなくて

「わたし」と「あなた」の区別に乏しい「あたしたち」「少女たち」「ぼくたち」といった交換可能な人物像は、自他の差異が結局は皮膚上の襞に過ぎないと知っているからこそのものだろう。男女の性差や恋愛も、歴史や物語も、人間と動物も、何なら「生と死」さえも、「展いたり畳んだりできる襞」から生じた作用にまで還元されていく。特にその折句への偏執において最大限に発揮される異様なまでの句割れ・句またがりにも、5・7・5・7・7の31音をひとつの堅固な一行詩と見たり、逆に一句ごとにぶつ切れになった五つのパーツの集積と見たりするのではなく、可塑的な一枚の布、一枚の皮膚と見ているからこその韻律感覚であろう。主体と客体、我と汝、男と女、雄と雌、歴史と物語、人間と動植物、生者と死者……これらの境界線は破壊したり、無効化したり、転倒させたり、侵犯したりすれば、むしろ「境界線の不在」として存在感を増していく。そこで山中は境界線などないのだと、そこにあるのは展げてしまえば一枚の皮膚になる無数の〈襞〉にすぎないのだと静かに喝破し、無邪気な子供のふりをして好き勝手に展開したり重畳したりすることで世界のアレンジメントをいつのまにか作り変えてしまうのだ。あたかも世界という巨大な皮膚で、ドゥルーズがライプニッツ論『襞』で用いた比喩を借りれば、まさに「日本の折り紙遊び」をしているかのように。
 山中の短歌に見られる特異な身体性(身体なき身体性とでも呼ぶべきだろうか……個別の身体へと還元されない非人称的な身体性)やさまざまな境界の曖昧さ、あるいは言語感覚といった特徴を読み解いていく鍵が、恐らくはこの「おっぱいから皮膚へ」向かう一首の中に見出される、といっても言い過ぎではないだろう。(了)

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