スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

月刊 吉田隼人 7月号「無差別から定義へ ――佐伯紺をめぐる断章」

言葉は悲しいぐらいに無差別だ。大雪のバレンタイン・デー、やや遅れて歌壇賞の授賞式に駆け込んだ僕ははずむ息を整えながら、入口で手渡された受賞作のプリントを読み進めるうち、そんなことを考えた。その受賞作、佐伯紺「あしたのこと」30首(『歌壇』2014年2月号)から引こう。

  たぶん誰でもよかったのです缶詰の桃のくぼみに親指が沿う
  悪さして走るその目に映り込むすべてをきらきらにして逃げ切る
  帰る場所などなくていいあちこちでみんなが好きと叫んでまわる

 壇上では、審査委員の今野寿美が講評を続けている。「生きづらさ」「息苦しさ」といった言葉が聞こえてくる。それでも前を見据えて生きる、という言葉も聞こえたような気がする。ともあれ、佐伯紺という作者が現代の若者に特有の(ものとされている)生きづらさとか、息苦しさとか、そういうものを体現した短歌を詠んでいるのは確かだろうと、入口で預けそこなった雪まみれのコートを持て余しながら僕は思う。現代の若者はその「生きづらさ」「息苦しさ」の果てに、たとえば通り魔のような犯罪を起こしてしまう。そんな紋切型を考える。選考座談会の記録を見ると、この「たぶん誰でもよかったのです」という、犯罪者の供述として僕たちがよく耳にするフレーズの引用について、やはり今野が言及している。無差別殺傷事件の犯人から借りてこられたようなこの「無責任極まりない」一節を取り上げて今野は、その無責任な発言を「自分で反芻」して「人間の弱さをあえて突きつける」ような「若い世代なりに、ちゃんと考えている人」と佐伯を評する。
 それでも、と落ち着きなくコートをいじりながら、僕はなお考える。たとえ批判的な視線を内蔵したうえで「反芻」しているのだとしても、佐伯の言葉にはあまりに多くの通り魔予備軍が、無差別殺傷犯予備軍がひそんではいないだろうか。「その目に映り込むすべてをきらきらにして逃げ切る」のは可愛らしい「悪さ」のように見えて、個々の存在をすべて「きらきら」へと無差別に還元してしまう暴力を潜在的に孕んでいる。この「きらきら」が「血まみれ」に置き換えられてしまったら、途端にこの「悪さ」は笑い事ではなくなってしまう。それではただの犯罪だ。この暴力に気付ける感受性の持ち主ならば「みんなに好きと叫んでまわる」という愛の発露にも同じような暴力を感じとるのはそう難くないだろう。「帰る場所などなくていい」と自分から退路を絶って、あちこちで無差別な「みんな」に浴びせられる言葉が「好き」だったからまだ良かったようなものの――愛の言葉だって立派に一個の暴力ではあるけれど――、ここを「死ね」に置き換えるとまたしても、あの「無責任極まる」無差別殺傷犯人のおもかげが浮かんでくる。≪降りたことない駅ばかり増えてゆく日々ひとが死ぬ話はずるい≫(「距離とは余白」10首、『朝日新聞』東京版、2014年2月18日夕刊)も、恐らくは「降りたことない駅」の名前をそこで起こった人身事故の報を聞くたびに覚えてしまうといったぐらいの意味で、直接的に作中主体が暴力を振るうわけではないものの、やはり個々人の死を「降りたことない駅」「ひとが死ぬ話」とひとしなみに括ってしまう、現代社会そのものが孕む暴力性のあらわれた一首だ。
 もちろんこの暴力性は他人を殺傷するところまでいかないところに留まりつづけるし、佐伯紺は通り魔犯人ではなく、あくまで歌壇賞受賞者として、精いっぱいのおめかしをして会場の前のほうに座っている。「缶詰の桃のくぼみに親指が沿う」。この親指が傷付けうるのはせいぜい、シロップに浸かってぶよぶよに柔らかくなった缶詰の桃ぐらいのものだ。むしろ缶詰のふちの切り口でかえって自分が傷付いて≪うっかり切った指に心臓が宿って私とおんなじように脈打つ≫とか≪こういう風にして切り傷ができるからさびしくなってからでは遅い≫というようなことになったりする。特に前者は思わず読者まで指先にまぼろしの痛みを感じてしまうぐらい、リアルな身体感覚を切り取った一首である。
 ときおり歌のなかで通り魔じみた横顔を見せる佐伯はしかし、缶詰のふちで傷付いてしまう指先と同じぐらい暴力に対して敏感な歌人でもあった。その敏感なセンサーはもちろん、自分の内側にうずまいている暴力をもしっかりと捉え、歌に定着させる。一年前に歌壇賞の候補作になった「選ばれて春」30首(『歌壇』2013年2月号)から何首か、そうした作品が思い出されてくる。

 右手はぐー/左手はちょき(殴る/刺す)、追い風で遠ざかる雲たちへ
 蜘蛛の糸に留められているしずくたちを起こさぬように名前をうばう
 あっけなく握りつぶせるものとして絹という字に棲む繭がある
 握力でみんななくしてしまいたいやわらかくくびれた抱き枕
 踏みにじりたい人ならばいることを申し訳なく思っています

 自分は殴り、刺し、奪い、握り潰し、踏みにじることのできる存在だということが、ここでは既に十分に自覚されている。暴力の向かう先は人ではなく、雲だったりしずくだったり絹という字だったり抱き枕だったりするわけだが、それも「雲たちへ」「起こさぬように」「棲む」と生命をもつものとして見られていて、たとえば「抱き枕」が人間を抱きしめたいという欲望を手近に済ますための代替物としてあるように、モノに向かうものも含めて自分のあらゆる暴力性が、本来は人間に向けられるべきそれの代償行為にすぎないということを、佐伯紺は(きっと)よく理解している。そのうえで自分の暴力性をごく控えめに「申し訳なく思って」、なんとなく居心地悪そうな顔をして受賞者席に座っている。「絹という字」の中にさえ脆くて壊れやすい「繭」を見てしまうその目があるからこそ、受賞作で自分の言葉に内在されている無差別性という、通り魔的な、暴力的な顔をえがきだすことができたのだろう、というふうに、僕は少し最初の考えを修正する。≪やみくもに飛び回る蠅を見て気づく私は怒り方を知らない≫(「選ばれて春」)、≪やさしさがわからないまま殴っても痛くないものばかり集める≫(「あしたのこと」)といった歌からも、自分が感情を理解も制御もできないという暴力性へのはっきりとした自覚と、どうにかその感情を爆発させないよう、蠅が飛び回っていても「見」ることにとどまったり、あらかじめ自分も他人も傷付けることのないように「殴っても痛くないものばかり集め」たりするような、可能な限り倫理的であろうとする努力が垣間見えるではないか。
そういえば「選ばれて春」30首の表題歌≪雨つぶに選ばれて春てのひらに映る私が私をみてる≫も、ヒトやモノを普遍化することでそこから個別性を奪い去ってしまう言葉の――そして、その言葉をあやつる自分も含めた人間の――本来的な無差別性、暴力性といったものへの省察を裏返すことで生まれた一首かも知れない、と考えてみる。雨粒は「すべてをきらきらにして逃げ切る」悪人の目と同様、あくまで偶然かつ無差別にいろいろなものを映しだすけれど、そこで無差別に、偶然に映しだされた自分の像を積極的に「選ばれて」あるものだと解釈しなおすところに、単なる無差別な暴力の応酬から一歩先へ踏み出そうとする佐伯紺の(こう言ってよければ)前向きさ、強さといったものを見てもいいだろう。
 そうした言葉の無差別性、偶然性という暴力を脱臼させるかのように、彼女はしばしば言葉のあそび、論理のあそびとでも呼びたくなる歌を織り交ぜてくる。目の前でそろそろ手汗にじっとりと湿ってきた受賞作のプリントにはまだ戻らず、もう少し一年前の候補作「選ばれて春」の歌を見てみよう。

 もう歩かなくてもいいのまぶしいとまずしいの差も考えないの
 でたらめに舞う紙吹雪 5年目は並びかえるとごめんねになる

 「まぶしい」と「まずしい」、「ごねんめ」と「ごめんね」。書き出してみれば他愛もない駄洒落ではあるけれど、光の眩しさのなかに貧しさという悲しみを見出したり、五年目という時間のなかにごめんねという謝罪の言葉を見出したりするまなざしは、自分の暴力性から目をそむけずに「申し訳なく思って」いたのと同じ歌人の内省的、自己批判的な心性の発露であり、誤解を恐れず単純な言葉に翻訳してしまえば、言葉そのものがもつ不可避的な暴力性を駄洒落の軽く乾いた笑いによってしなやかにすり抜けて読者へ届けられる、一種の「やさしさ」である。ここまでわかりやすい駄洒落ではないけれど、受賞作「あしたのこと」にも言葉そのものと向き合おうと試みた歌がいくつも見られる。≪門という字の前に立つ警備員が誰も来ないと言って立ち去る≫や≪点過去と線過去という文法があってあたまの中は星空≫といった歌はそれぞれ、門という漢字を本物の門に見立ててその前に警備員を立たせてみたり(もちろん字のなかに入ろうとする人なんていないから、警備員は仕事がなくなって立ち去ってしまう)、外国語の文法書に出てくる過去時制の分類を本物の「点」と「線」に見立てることで、そこにやはり点を線でつなぐことで生まれてくる満天の星座を見付けてみたり、言葉そのものを事物のように取り扱うことで異化効果を生もうとしている(このあたりに先行する歌人として望月裕二郎の影を見てもいいだろう)。また≪引用をつなぎあわせてとびきりの乱丁本になりたいのです≫の一首には、自分自身がさまざまな言葉の「引用」のツギハギで出来た「乱丁本」にすぎないという切実な自覚と、それを引き受けようとする(少し悲壮な、あるいは、やけくそ気味の)決意が見てとれる。引用の織物としてのテクスト、というときのロラン・バルトの優雅な手つきからはだいぶ離れた「ざらざらした現実」(ランボー)の手触りを知ってしまってなお、その≪新しいものなどなくて配合が変わってくだけ 両目を閉じる≫(受賞後第一作「生活と称した呼吸」30首、『歌壇』2014年3月号)という荒涼たる言葉の現状を受けとめるには、やはり一通りでない強さと覚悟と、それにさっき言ったような意味での「やさしさ」が求められる。そんな覚悟と「やさしさ」が同時にあらわれたような一首を、髪についていた雪がいつのまにか融けてしたたった水滴のせいで文字がにじんでしまったプリントの、受賞作のなかにも僕は見出すことができた。

 話すことは手放すことだいまは泣くしかできないひとに砂漠を

 これも「はなす」と「てばなす」の駄洒落だけれど、言葉を発するとき常に自分が何かを手放してしまっているという悲しい現実をそのままに受け容れて、そのうえで「いまは泣くしかできないひと」と真摯に向き合おうとする。そのひとのためにわたしがかけられる言葉、すなわちそのひとの涙をぬぐうためにわたしが与えられるものは、たとえばハンカチやティッシュのように適切なものではなくて、同じ吸水性のあるものにしても「砂漠」のようにいくらなんでも過剰にすぎる、ともすればそのひとにとって暴力にも転化してしまいかねないようなものだけだ。それでも泣いているそのひとに自分が話せる=手放せる精一杯のものとしての「砂漠」を渡すことは、まさに覚悟に裏打ちされた「やさしさ」と言っていいだろう。あるいはこうした態度に与えるには、≪あたたかい雨が浴びたいささやかな祈りの有効期限は明日≫(「選ばれて春」)、≪靴ひもがほどけたまんましゃぼん玉吹きつづけてた お祈りまみれ≫(「あしたのこと」)、≪すぐに祈る人たちの横すり抜けてもらった言葉を灯して歩く≫(「距離とは余白」)、≪ぬかるみに春を傘には愛称をきみの負け戦には祈りを≫(「距離とは余白」)といった歌にみられるように佐伯の偏愛する「祈り」という呼称のほうが適当かも知れない。(※もちろん、この「祈り」という語には単なる宗教的な意味以上に、たとえば就活生の間で流布している「お祈り」=不採用通知、というスラングの苦い響きを聞き取ることもできなくはないわけだけれども。)
 言葉はどこまでも無差別な暴力性を帯びているけれど、そもそも言葉を介さなくては決して他者とつながりをもつことはできない。それゆえ佐伯はその暴力性を、無差別性を痛いぐらいに自覚しながら、それでもなお「祈り」にも似た言葉を紡ぎつづける。暴力と祈りという言葉の両義的な性格のなかで佐伯は少しずつ、この論の冒頭で掲げたような「無差別性」の発露とでもいうべき、もう講評を終えて自分の席に戻ってしまった今野寿美の選評を今一度借りるならば「無責任極まりない」ところから脱し、その先の境地を探ろうとしているように思われる。何首か引くことにしよう。

  ささくれを言い訳にして下を向く春の終わりは夏のはじまり(「選ばれて春」)
  死ぬまでは生きるのだから 朝焼けがうつくしいのは曇りのきざし(「あしたのこと」)
  早起きの五時/夜更かしの二十九時 誰にとっても夏なのですか
  炭酸は目を覚ます棘 味方とは敵になりうる人のことです
  溶かしつづける水、溶けつづける氷、音が鳴らせるなら氷水
  立ち並ぶビルがいちいちまぶしくて光源は見えないけれど朝(「距離とは余白」)

 あらゆるものから個別性を奪って普遍化してしまうのも言葉なら、名前を与え、定義を与えることで差異をみとめ、個別性を付与するのもまた言葉である。その両義性を利用するかのように佐伯はあるものとあるもののあいだにある境界に目を凝らし、定義を与えることで事物にふたたび個別性を回復させようと試みるようになってきた。春と夏という季節の境目(「生活と称した呼吸」には≪手をつなぐ きみが季節の変わり目に産まれたことがわかる気がする≫という相聞歌=「季節の変わり目」への愛を詠った歌もある)、死と生の境目、早起きの人にとっての五時と夜更かしの人にとっての二十九時の境目、味方と敵の境目、水と氷と氷水の境目、似通っているようで実は細かな差異があるビルとビルの境目、そして光を反射するビルの窓とその元になる不可視の光源との境目……。きわめてあいまいでファジーな領域に、しかしその両面をそれぞれ捉えることのできる佐伯の目は、それらを差異化=微分することでそれぞれに個別性を回復させていく。こうした「境目」への注目、そしてそれと一体になった「定義」への欲求といった傾向は受賞後第一作「生活と称した呼吸」(このタイトル自体も一種の定義として読める)においてより顕著になる。

  終わりの日を設定しますそれからは冬の花火のような日々です
  牛乳の賞味期限が来月になったら焦る頃だと思う
  正夢はみるものでなくつくるものきみに別れを告げるこれから
  包装を剝ぎとる聖夜 居場所とは居る場所なのか居た場所なのか
  ほんとうにおなじ朝焼け? 長電話の理由問えないまま白い息
  信号は夜でも律儀 親しみは座標ではなく記憶に宿る
  濡れるところ濡れないところの境目のまっすぐ上が屋根のはじまり

 佐伯の目はここに及んで、単に「境目」を発見するだけでなく、むしろ積極的に定義をおこない、差異化=微分を進めるようになる。現在と「冬の花火のような日々」という未来を画する「終わりの日」は主体自らによって設定されるし、あらかじめ設定された「牛乳の賞味期限」を基準にしつつも、それとは少し別なところに「焦る頃」を自分で設定する。積極的に「きみに別れを告げる」ことで単なる夢を「正夢」として「つくる」のもかなり能動的な定義の動きといっていいし、「居場所」「朝焼け」といったそれまで万人にとって自明のものとして通用していた言葉は、改めてその詳細な定義を問われることになる。雨や雪のために地面が濡れているところと濡れていないところの「境目」を発見する目はもちろん健在だが、地面に向いていたその目をさらに上に向けなおすことで、そこには「屋根のはじまり」という新たな定義がさらに付与される。「親しみは座標ではなく記憶に宿る」という、否定の言辞を伴うことでよりその積極性、能動性を増している定義付けの下句には、そうした「定義を与えるもの」の象徴のように「夜でも律儀」な信号が配されている。同じ信号でも≪交差点の信号がみな赤になる一瞬ずつを集めて投げる≫(「選ばれて春」)の暴力的にひとまとめにされた「信号」とここでの信号とは、だいぶその意味合いが違ってきているのがわかるだろう。こうした定義へのまなざしは事物のみならず自己を含めた人間の感情にもまた向けられる。先に引いた≪やみくもに飛び回る蠅を見て気づく私は怒り方を知らない≫(「選ばれて春」)、≪やさしさがわからないまま殴っても痛くないものばかり集める≫(「あしたのこと」)のような歌にみられる、自分で自分の感情を理解できていない主体像とは違った側面が「生活と称した呼吸」にはあらわれている。

  さびしさを知るということしずしずと身体をむしばんでいく好意は
  踏みしめるたびに押しつぶされる雪 よりつらいのはどちらだろうか
  どうなりたいんだろう私はタバスコをかけると辛いパスタを前に
  どちらかと言えばいいえに丸をして笑おうと決めてから笑った
  海にひらいた傘を沈めてかなしみの無いかなしみにくれるあなたに

 好意のために身体をむしばまれながらも、この主体はそこから「さびしさ」という感情を切り出して認識することができる。単に「つらい」という感情を吐露するだけでなく、踏みしめる自分と「押しつぶされる雪」のどちらが(あるいはこの連作中で別れを告げる「私」と告げられる「きみ」のどちらが)つらいか、その多寡または濃淡を量ろうという意志も生まれる。パスタにどれぐらいタバスコをかけてどれぐらい辛くするか、といった些細な選択を前にしても、自分自身の意思を「どうなりたいんだろう」と自問自答することでなんとか一個の定義として取り出そうとする。はい/いいえ、の二択では答えにくい問いかけにも「どちらでもない」「わからない」ではなく、消極的ではあっても「どちらかと言えばいいえ」という意志判断のなされた選択肢によって答えることで、自分でもはかりかねていた自分の意志や感情に定義を与えようと試みる。だからこの主体は「笑おうと決めてからわらった」というように、あくまで感情を意志によって決定、制御しようとするのである。そしてこうした目は単に自己の内面に向かうだけでなく、「あなた」の「かなしみの無いかなしみ」という、他者の感情の繊細で複雑な機微をも汲みとろうとするまでになった。それまで感情が理解できずにいた状態の主体であれば、「かなしみの無い」ことは単に感情の欠如、理解不能な無感情としてしか理解されなかったはずが、その「かなしみの無い」こと自体もまた一段階大きな「かなしみ」であるという視座を獲得することで、より「あなた」の心のこまやかな襞を読みとれるようになっている。言うなれば、自己に対しても他者に対してもより「やさしく」なったのである。(※「生活と称した呼吸」以降の「距離とは余白」でも≪激しい感情しか読み取れない異国語できみについての演説をする≫のように、細やかな感情を読みとることを拒絶するような言葉に遭遇してもなお、言葉を尽くして何とか「きみについての演説」を成し遂げようとする主体像は変わらず存在している。)
 念のために補足しておけば「生活と称した呼吸」30首は、恐らくは静かに終わりつつある恋愛を詠んだ一連である。これまで「定義」というまなざしを獲得したものとして肯定的な意義を付与して僕が引いた歌の多くには、恋の終わりの苦くて傷付きやすい心情が盛り込まれている。作中主体と作者を混同するわけではないけれど、さっきからお祝いの言葉を言われるたびに少し翳のある表情で会釈を返す佐伯のすがたを見ていると、同じ「生活と称した呼吸」のなかでも≪おめでとうと言われるたびにうれしいの形にくぼむ精神を買う≫という一首を思い出してしまう。恋愛うんぬんはともかくとしても、自分の感情にまでいちいち定義を与えていこうとする意志の強さを僕はこれまで肯定的に、作中主体の(そして同時に短歌作者としての佐伯紺の)成長・進歩と捉えてきたけれど、そこには逆に、すべてを言葉によって定義付けられてしまうために「うれしい」という感情もどこか他人事のようにしか受け取れないという負の一面もまた確かに存在するのであった。

  遠くまで行ける光だ気まぐれにお札を入れてみた券売機(「あしたのこと」)
  改札のまるい拒絶にいつの日か滅ぶかもしれない磁気定期(「生活と称した呼吸」)

 その証左のように、同じような題材を扱った二首でも、受賞作と受賞後第一作とではこんなにトーンが違っている。「あしたのこと」に見られた無差別性、無責任さは、裏を返せば自由や未来への希望とも結びつくものだった。ほんの気まぐれで通り魔を起こす……のではなくて、ほんの気まぐれで券売機に小銭ではなくお札を入れてみる。すると券売機の画面が光って(あるいはボタンに光がともって)、自分で想定していた行先よりももっと「遠くまで行ける」切符も買えることを示される。実際には行動に移さないにしても、遠くへ行けるかも知れないという思わぬ解放感が生まれ、一首全体にも「光」がさして見える。この無責任さゆえの解放感、そしてそこからさしてくる「光」は、受賞作以前の「選ばれて春」においても≪傘はない雨も嵐も鳴けばいい。徹底的に負けたいのです≫や≪雨の中走るいま一生ぶんの相合傘を体験してる≫のような爽快な青春歌に漂っていた明るさと同根のものだ。「あしたのこと」までの佐伯の歌に顕著だった無差別的でともすれば無責任ともとられかねない言葉の在り方は、一方でこうした優れた表現にも結実しうるものだったわけである。
 しかし反対に、あらゆるものごとに個別の定義を与えていこうとする「生活と称した呼吸」では、磁気定期のなかでもチャージ金額が足りなかったり、何かの具合で磁気に不調をきたしていたりするものは容赦なく、自動改札のあの「まるい」タッチ部分に「拒絶」されてしまう。同じ「定義を与えるもの」の象徴となる機械でも、先に引いた「信号」の好感をもって描写される律義さとはちょうど裏返しで、自動改札は磁気定期に不具合をきたした「私」のことをあくまで「律義に」拒絶するのである。「あしたのこと」では電車に乗ってからも≪電車の窓の広告の絵の中の窓 深呼吸できる気がした≫と、電車のなかにあるささやかな「遠く」に解放感や落ち着きの続きを見出すことができるけれど、「生活と称した呼吸」では≪箱舟に乗り込むところだったのにきちんと最寄駅で目覚めて≫と、改札で「拒絶」された後味の悪さを引きずったまま、災い多き現実から救ってくれるはずの「箱舟」にもやはり拒絶されて、もとの現実の「最寄駅」で夢から覚めてしまうという苦々しい場面に帰着する。先に少し触れたように、定義という「やさしさ」は単なるやさしさではなく、常にこういった負の側面と向き合う「覚悟」をも要求するものなのだ。
 さらにダメ押しをするようだが、「生活と称した呼吸」以降の佐伯が試みているような「定義」の歌は決して彼女の専売特許でもなく、ともすればむしろ類型化した発想の歌に陥ってしまう危険性をも孕んでいる。たとえば≪文末に(笑)を添えながらこれは燃えない部類の怒り≫(「生活と称した呼吸」)や≪掛け違えたボタンいくつか引きちぎりわたしのいないバージョンのきみ≫(「距離とは余白」)といった歌での、「燃えない部類の怒り」「わたしのいないバージョンのきみ」といった言い回し。これと似たような「定義」の構文を借りた作りの歌は、佐伯と同じ早稲田短歌会出身の女性歌人たちによって既に多く使われている。

  あれは製紙工場からの煙なんですみんなが上に行く用でなくて(山中千瀬「ここはいよみしま」12首、『早稲田短歌』39号、2010年3月)
  目の裏で制服を透明に変えてきみと忘れる用の約束(山中千瀬「きんぎょさよなら」30首、『早稲田短歌』40号、2011年3月)
  ビー玉は堕ろすね(ロング・ロング・アゴー)音のないタイプの雨が降る(山中千瀬「きんぎょさよなら」同上)
  煮えたぎる鍋を見すえて だいじょうぶ これは永遠でないほうの火(井上法子「永遠でないほうの火」『短歌研究』2013年9月号)

 否定することでかえってただの煙にいっそう死のイメージを強める「みんなが上に行く用でなくて」、最初から成就しないことを想定してなされる約束の切なさを醸し出す「きみと忘れる用の約束」、無音であることによって音楽を奏でる「音のないタイプの雨」といった山中の表現力や、預言者じみた口調で読者に直接語りかける井上の「永遠でないほうの火」の象徴性に拮抗するほどの強度を、果たして佐伯の前掲二首は獲得しえているかというと、これは甚だ心許ないのである。上句の「文末に(笑)を添えながら」という感情の機微を、どこまで「これは燃えない部類の怒り」は掬えているか。ここで試みられている「燃える/燃えない」という怒りの差異化(あるいは分類)はごくごく通俗的で、そこまで新鮮な心理描写につながっているとは思えない。「わたしのいないバージョンのきみ」というときの「バージョン」も、単にそのままでは歌として成り立たないから無理にひとひねり加えただけという感が強く、表現としての必然性には疑問が残る。
 ……と、ここまで考えたところで花束の贈呈が終わって、そろそろ授賞式もおしまいである。三つも大きな花束を抱いた佐伯紺は≪でもこれで最後だから、と花束を抱えた花のあたりが静か≫(「生活と称した呼吸」)といった具合に、緊張の授賞式も「これで最後」と少し安堵の表情をしている。しかし、ついこのあいだ僕も経験したばかりだから言うのだが、大変なのはこれからである。授賞式の後の懇親会はだいたい、食事を摂っている暇もないぐらいひっきりなしに挨拶が来て、授賞式そのものよりよっぽどしんどいのだ。そして授賞式よりもそのあとのイベントのほうが大変なのと同じく、短歌そのものも受賞作や受賞後第一作より、それ以降どのような短歌を作っていくかという、そっちのほうがよっぽど大変なのである。この論はここで、すなわち、これまで佐伯紺の発表した歌が秘めている可能性をできるだけ丁寧に追うことで逆説的に彼女が現在ぶちあたっている壁を浮き彫りにしたところで、ひとまず終わりを迎える。この壁を、この限界を彼女がいかに乗り越えていくかを期待しつつ、稿を閉じることにする。ああ、どうもみんな壇上に上がって、佐伯を囲んで記念撮影をするみたいだ。僕も行かなくては……。
スポンサーサイト
メニュー
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。