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「率」2号、瀬戸夏子歌集通販開始のお知らせ、「率」創刊号品切れのお知らせ

「率」2号、瀬戸夏子歌集『そのなかに心臓をつくって住みなさい』の通販受付を開始します。
11月23日(金)の正午12時までにお申し込みいただくと第一次発送時にお届けすることができます。
(もちろんそれ以降も通販受付は行います。)
お申し込みはこちらから。

また「率」創刊号はおかげさまで通販分は品切れとなりました。(2012年11月19日までにお申し込みいただいた方々の分は確保してあります。申し訳ありません、いましばらくお待ちください。)
委託書店さまのほうにはまだ少々在庫があるようなので、ご希望の方はそちらからご購入いただければ幸いです。
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瀬戸夏子歌集「そのなかに心臓をつくって住みなさい」

瀬戸夏子歌集
『そのなかに心臓をつくって住みなさい』


○contents
すべてが可能なわたしの家で(20首)
マイ・フェイバリット・ヘイトスピーチ(25首)
愛国婦人会(14首)
イッツ・ア・スモール・ワールド(25首)
日本男児(5首)
クイズ&クエスチョン(31首)
「奴隷のリリシズム」(小野十三郎)、ポピュリズム、「奴隷の歓び」(田村隆一)、ドナルドダックがおしりをだして清涼飲料水を飲みほすこと(32首)
手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)(120首)
中納言失脚(10首)
血も涙もありません(14首)
The Anatomy of, of Denny's in Denny's(16首/31首)
ジ・アナトミー・オブ・オブ・デニーズ

○2012年7月20日発行/A5版/126P/フルカラーカバーつき/桃色の小口染/1500円

○短歌同人誌「町」(土岐友浩、服部真里子、平岡直子、望月裕二郎、吉岡太朗)&「率」(川島信敬、平岡直子、松永洋平、薮内亮輔、吉田隼人、吉田竜宇)が歌集について評&エッセイを掲載したB6版16P折込み冊子つき

「スヌーピーはパンダだよね」と瀬戸さんは言った。
スヌーピーはビーグル犬である。   ――平岡直子

わるいけど引き続き、瀬戸夏子にはこの世の心臓となってもらう他ない。   ――望月裕二郎

早稲田だったか、高田馬場だったか、確かどこかの駅で電車を待っていたとき、瀬戸さんに「なんで短歌なんですか」とストレートに訊ねたことありましたよね。瀬戸さんは、「短歌なんですよ」と笑ってましたね。あのときはまだこの言葉の真意がわかりませんでした。でも今ならわかるような気がします。瀬戸さん、やっぱり短歌ですよね。   ――川島信敬

これらの歌については僕にしか語れないなにかがあった筈なのだけれど、それがなんなのかどうしても思い出せない。僕は悪くないと言い訳したいが残念ながら自分以外に悪い奴が見つからず、しいて言えば作者が悪い。悪いかどうかはともかく、謝れ、と言いたくなる。   ――吉田竜宇


○ご注文はこちらから

Amazonもご利用いただけます
(「一時的に在庫切れ」表示になっていてもご注文いただけます。密林社さまのサービスを利用しています。)

「率」2号

○ゲスト連作
「蝉と季節」内山晶太
「贄」小原奈実
「撃ちころして」馬場めぐみ

○同人連作
「適当な世界の適当なわたし」薮内亮輔
「二上」瀬戸夏子
「サンデー」川島信敬
「装飾品」平岡直子
「世界はそんなに素晴らしくない」松永洋平
「砂糖と亡霊」吉田隼人
「人がいなくても血が流れることがあります。」吉田竜宇

2012年11月18日発行/A5版/68P/500円

「第十五回文学フリマ」に出展します

2012年11月18日(日)、11:00~17:00、東京流通センター 第二展示場(E・Fホール)にて開催される第十五回フリマに出展します。
スペースは「ウ-31 率」になります。

当日は『率2号』(500円)の他、瀬戸夏子歌集『そのなかに心臓をつくって住みなさい』(1500円)の頒布を予定しています。
その他、吉田隼人による同人誌名『率』を決めるに至ったエピソードに関するエピソードをつづったエッセイや、吉田竜宇&藪内亮輔による返歌企画などが掲載された文フリ限定フリーペーパーの無料配布を予定しています。

ご来店をお待ちしております。

月刊 吉田隼人 6月号:「ゐもり」を詠む あるいは茂吉と邦雄と『「赤」の誘惑』

藻のなかに潜(ひそ)むゐもりの赤き腹はつか見そめてうつつともなし 斉藤茂吉『赤光』


 斉藤茂吉『赤光』で「死にたまふ母」と並んで高名な相聞連作「おひろ」のうち「其の三」中の一首。夏休み中に帰省した際に、大学の生物学科に通っている上の妹から授業で解剖したという開腹されたアカハライモリの写メを(そのとき食事中だったというのに!)見せられたのをきっかけに、その帰省中に読んでいた塚本邦雄の『茂吉秀歌「赤光」百首』や、たまたま古書店で見つけて購入した碓井益雄『イモリと山椒魚の博物誌』などで目にすることになったこの歌を、今回は少しく「深読み」してみようと思う。

 『赤光』というこの処女歌集を通して「赤」の主題系に誘われるがままの視線を摘出することで、そこに「写生」という語に収まりきらない詩人・茂吉の姿を見出そうとしたのは『茂吉秀歌「赤光」百首』(講談社学術文庫版、1993年)の塚本邦雄だった。その塚本はしかし、爬虫類・両生類への嗜好が理解できなかったためか(蛇や山椒魚の登場する『赤光』中の歌についても塚本はあまり好意的なコメントを残していない)、それともあくまで彼独自の視点から百首の「秀歌」を選定するという元々のコンセプト上、塚本の眼鏡にかなわない掲出歌(あくまで同じ「おひろ」連作中の別な歌への評の過程で参考として引かれている数首のうちの一首にすぎない)にまで紙幅を費やしたくなかったためか、この種の生物に愛着を示す茂吉の感性の異常さにいささか引き気味に軽く触れて見せただけで、ここにあからさまに書き込まれているイモリの腹部の「赤」をほとんど素通りしてしまっている。
『赤光』を「赤」の主題系から辿り直すことで「写生」や「実証」に対抗しようとする塚本の論は、読者の目にはときに牽強付会にうつることさえある。先に少しだけ触れたように掲出歌は『茂吉「赤光」百首』では同じ「おひろ 其の三」中の「念々にをんなを思ふわれなれど今夜(こよひ)もおそく朱の墨するも」という一首へのコメントの途中に引かれているのだが、同じコメントの中で塚本は「朱の墨」という一語からその原料となる辰砂(しんしゃ)にまで深入りして言及していく。辰砂が硫黄と水銀からなる化合物であるが、その組成についてまで「猛毒の液体金属水銀と、ソドム、ゴモラを焼いた火である硫黄を併せ持つ朱」という不吉かつ不穏なイメージを読み込もうとするのはどう考えても過剰な深読みだろう。塚本は同書中で『赤光』の別な歌に対しても同様の「過剰な深読み」を披露している。もちろん僕たち読者は寺山修司がかつて明かしてくれたように、塚本邦雄という歌人が夭逝の友・杉原一司を介して「水銀」という金属にただならぬ執着を見せ、かの『水銀傳説』なる連作、そして同名の歌集までも成したという背景を知っているから、『赤光』の背後に「赤」の主題系を読み取るのと同質の視線でもって塚本の背景に「水銀」の主題系を読み取ることで、その過剰さを彼の嗜好へと容易に還元してしまうことが可能なわけだが。
ところで、一般に写生なる手法によって事実に基づいて詠まれた歌集とされる『赤光』を「赤」の主題系から読み替えて、そこに単なる「写生」ないしは「事実」に収まりきらない詩的側面を見出そうとする塚本の姿勢は、蓮實重彦がそのフィクション論『「赤」の誘惑』(新潮社、2007年)第八章「地球儀と証言」の前半で正岡子規に対して試みた、やはり「赤」の主題系にそって随筆・俳句・短歌など子規の作品を読み替えることで、そこに一種の「フィクション」を見ていこうとする態度とどうしても重なって見えてくる。もっとも蓮實の場合はもっと徹底していて、『國文学』誌に掲載された二人の著者による子規の作品における「赤」を扱った論文を批判的に読みながら、「正岡子規」という作者の責任に回収しきれないところで「赤」が不意にテクストに顔をだす、その一瞬に生じるものをこそ「フィクション」と呼ぶわけで、同じく「赤」の主題系をたぐるようにテクストを読み進めてはいても、『赤光』の裏側に単なる写生を超えた「作家・斎藤茂吉」の無意識裡の詩法とでもいうべきものを求める塚本のそれとは、少々手つきなり目的なりが異なっていることは一応きちんと言い添えておかねばなるまい。――とはいえ、蓮實の容易に要約を許さない、読者を宙づりにしたまま進められる独特のエクリチュールについてここでこれ以上詳細に語るわけにはいかないだろうが。しかしいずれにせよ、百首のアンソロジーに自ら「一首四百字五枚」という縛りを設けたうえで評言を付している以上どうしても断片的になりがちな塚本の『茂吉秀歌「赤光」百首』を読者である僕らが補完していきさえすれば、蓮實が子規を読んでみせた手つきと同じように、作者の責任を逃れたところで不意にあらわれる「赤」の主題系を敢えて恣意的に追うことで『赤光』を一個の「フィクション」として読み替えることは可能であろう。
塚本は同書中で繰り返し、『赤光』の歌一首一首の裏側に茂吉自身の伝記的事実を見ようとする「実証主義解説者」をときに揶揄しつつ、また別なときには半ば憐れみをさえ見せながら一貫して批判している。特に実証的な考証が追いついていないこの「おひろ」という一連の相聞連作をめぐっては「写生」ならびに「実証」への批判は一段と冴えを増し、「其の一」冒頭の一首を引いてのコメントではついに次のように言い放つ。「茂吉に虚構はあり得ぬといふ確信が、奇特の士を迷はすのだ。逆に言ふなら、茂吉の歌は、このやうに、作品の成立事情や背後の事実を立証することを拒(こば)んだ時、始めて『歌』の、『恋歌』の本然に立ち帰つたのだ。『おひろ』がまことにゐたか、ゐなかつたかなど、歌の優劣とはいささかも関りのないことを、しかし、恐らく作者自身も未だ考へ得なかつた」(103頁)。ここで塚本はとりわけ相聞歌としての性格の強い「おひろ」連作を取り上げて、その虚構=フィクション性を云々するまでに至っている。
そこにきて立ち帰ってみたいのが掲出歌である。塚本は「はつか見」ただけのイモリの腹部の赤色に「うつつともなし」という「歓びのあまり夢みごこちに近い心境」を抱いてしまう茂吉の異様な感性を取り上げるに留まっているが、この「赤」の主題系としてあらわれた一匹のイモリについては、塚本が茂吉の何気ない行住坐臥の文房具の一品に過ぎなかったはずの「朱の墨」から原材料の辰砂の化学的組成にまで遡って「赤」の主題系がまとう異様な相貌を描き出そうとしたのと同様な、「過剰な深読み」のできる可能性が秘められている。
碓井益雄『イモリと山椒魚の博物誌』(工作舎、1993年)にはイモリを取り上げた文学作品の一つとして掲出歌も引かれているが、著者はそこに何の解釈も加えていない。それより同書で目を引くのはむしろ「ゐもり」が和歌をはじめとする日本古典文学において、恋愛と深く関係のある生物として取り扱われてきたことを豊富な事例とともに示す第二章・第三章である。なにぶん事例が豊富なので詳しくは当該書に当たっていただくほかはないが、簡単に輪郭だけをなぞっておくとこういうことになる。古代中国が発祥とされる「ゐもりのしるし」という、その小動物の血を肌に塗ることで女性の貞操を試すことができるという一種の呪術が日本にも伝来し、ときに「蟲のしるし」などと変形されつつも歌語として定着し、『赤染衛門集』をはじめ和歌や俳諧、川柳などに相聞的属性を帯びた用例が確認される。これは実は南方熊楠なども指摘しているように水棲両生類のイモリと屋内に棲みつくことの多い爬虫類のヤモリとを混同したもので、歌語として定着するまでに至った「ゐもりのしるし」は実はヤモリの血を用いた呪術なのだが、それはともかくとしても「ゐもり」という語彙そのものが相聞歌と関連して用いられてきたものであることは間違いない。さらに両生類のイモリ自体が、この「ゐもりのしるし」という生物の呼称の混同がどの程度まだ関係しているのかは分からないものの、生殖のさまが激しいという理由などからその黒焼きが現代に至るまで媚薬とされて有名であることなど、恋愛、それも特に激しい熱情を伴ったそれに関係するモティーフとして機能していると言うこともできるだろう。
茂吉自身が「ゐもりのしるし」あるいは媚薬としてのイモリの黒焼きについて知っていたかどうかは不明ではある(個人的には、この歌を詠むときに想定してはいないにしても、後者の媚薬については知っていたように思う)が、掲出歌が「おひろ」という相聞色の濃い連作中に置かれていることも考え合わせれば、ここにあらわれる「ゐもり」もまたその恋愛という前面に出された主題と、「赤」という歌集全体を通して裏に隠された主題系とを繋ぎ合わせうる、その一つの接点であると言っても過言ではないのではないか。そして「藻のなか」から「はつか見」えただけで作中主体を「うつつともなし」とまで言わせてしまうこのイモリの腹部の「赤」もまた、塚本が指摘するような『赤光』における「赤」の主題系の一部をなしているのであり、さらには「おひろ」連作を作者の手から恣意的に引き離して虚実のあわいへと誘う、蓮實重彦的な『「赤」の誘惑』の主題論的=テーマ批評的な読みの地平へまでも読者を導きうるような「赤」の一つであると言うことができると思う。

そういうわけで今回は、茂吉の膨大な歌の中でもさして目立った存在でもないこの一匹のイモリを捕まえて、そこから「写生」「事実」を覆しかねない力をもった「赤」という主題系にそった読解への扉を、塚本邦雄・蓮實重彦という二つの大きな名前の影を追うようにして少しばかり開いてみた。なおちなみに、塚本が『赤光』に度々あらわれる「朱の墨」の原料としてことさらに強調してみせた辰砂という物質は、『漢書』などの文献では「ゐもりのしるし」の呪術に用いる「ゐもり」にあらかじめ飲ませる餌とされていることを、僕のイモリにまつわる「過剰な深読み」と塚本の朱墨をめぐる「過剰な深読み」とをつなぐささやかな架け橋として、いちおう最後に付記しておく。
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