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月刊 吉田隼人 4月号:包摂と破綻

ときに写実はこころのかたき海道の燃えるもえてゆくくろまつ
(井上法子「ライト・パス」『早稲田短歌』41号)


 破綻とはすなわち布地のやぶれとほころびである。

  あの陽光を浴びつづけても生きててね蕗の薹ほつれつつ咲く土(「ライト・パス」)

 井上はなぜだか世界だとか国だとか空だとか、やたらとそういう大きなものを背負いたがる。あるいは言葉を以て包みたがる。そんな小柄なからだでどうして、と思う反面、だからこそ言葉のなかに世界をつくって、それを大事に抱え込んでいたいのかも知れないとも思う。彼女の歌に出てくる大きな一般名詞は、たいがい〈わたし〉の所有下・管理下に置かれている。

  夜明けならなくてもいいよ夕映えのせかいの路地をきみにさずけて(「ライト・パス」)
  ここはわたしの国じゃないけど踏む銀杏 またおまえから数えてあげる
  夕映えのせかいでひとりぽっちでもうどんをいとおしくゆがくんだ
  僕たちの世界に棚がおちてきてゆめから淡い季節がとどく(「スプリング・アンド・フォール」)
  色づけてはならないものとして棚をひらいて これが僕たちの空
  悪さする(ことばをかくす)僕たちはあまねく町の戸棚をとじて

 そして語りかける言葉が多い。言葉はすべて命令文なのだ、とは誰が言ったのだったか。それはともかくとしても、なるほど井上の作中主体が語りかける言葉はその多くが命令文的に機能している。ある種の青春詠によく見られる高らかに歌い上げるような命令文(「左折してゆけ省線電車」「たったひとつの表情をせよ」)とは違い、静かなトーンで、対象のはっきりしない命令である。

  眼裏に散らす暗号 うつくしい日にこそふかく眠るべきだよ(「スプリング・アンド・フォール」)
  「」ってふとかなしくて優しさは透明な暴力
  誕生日(はしゃいではだめ)これからをしまい込んでおく冬の棚
  遠のいてゆく風船よおまえたちまぶしい楽章に飛んでゆけ(「ライト・パス」)
  おしずかに。たとえ浜辺にとどいてもかなしみはひた隠す潮騒
魚たちこわくはないよひるがえす汚水をひかりだらけと云って

 かくして井上は、やわらかな命令調のパロールを布のように駆使して、世界を包摂しつくそうとする。小さな世界をすみずみまで把捉して、その把捉する言葉によって命令を張りめぐらせ、健気にもそこに君臨しつづけている。この世界包摂の願望を、僕等はなにか危ういものでも見るような気分で見続けてきたのだけれど、ここにきてようやくその破綻を目にすることになった。

 それにしてもこの歌はよくわからない。批評の言葉というのはだいたい「俺はわかっている」「お前はわかっていない」「だから少しばかり教えてやる」といったような不均衡のもとに成り立っているのだと思うのだけれど、そうすると「よくわからない」などと言ってしまうともうこの文章は批評として崩壊してしまっている――というか、まさに「破綻」してしまっているのかも知れない。僕じしん、これまで何本かの批評を「俺はわかってる」という顔をして書いてきたわけだが、それは「俺は(この歌の世界をすみずみまで)わかってる」という顔をできるような対象を選んでやってきたのである。そうして取り繕ってきた批評の言葉を、しかしこの破綻している一首を前にして改めて紡ぐということになると、こちらも破綻させて向き合うのが筋というような気もする。
 そんなわけでここから先は、破綻した歌を破綻した評者が批評していくことになる。読者もこれを諒とせられよ。

「ときに写実はこころのかたき」。写実を親の仇のように憎みつづける歌人はいるのかも知れないけれど、ときどき「こころのかたき」にするというのはよくわからない。わざわざ「こころのかたき」にしなければならないほど、現代において「写実」が力をもっているのかどうかも怪しいものだし、それが力をもっているとしたら、ときどき思い出したように「こころのかたき」にするくらいでどうにかできるものでもないだろう。
 とりあえず「こころのかたき」にしてはみたものの、「写実」がそれでどうこうなるわけではない。「ときに写実はこころのかたき」と口にするとき、そこにはたぶんまず漠然とした、無対象な敵意だけが存在していて、どことなくカタキ役になっている「写実」をここでも一種の仮想敵として持ち出してきたという観がある。急に「こころのかたき」にされてしまった「写実」もいい迷惑だろうが、こちらだってあれだけ世界を包摂しようとしてきて、それがここにきて破れ、綻びはじめてしまったのである。どこかに敵意を向けないことには、そのまま自壊してしまうかも知れない。

 「海道の燃えるもえてゆくくろまつ」。海道というのが何だか知らなかったので、わざわざ調べてしまった。最初は「海棠」と勘違いしていて、なにかそういう花があるのかと思っていたのだが、字面そのままに「海沿いの道」を指す語彙らしい。東海道や南海道のような大きな「海道」があったり、またその前身となる「海道」というものがあるようで、それは井上の故郷である福島県いわき市も通っている。とはいえ「写実はこころのかたき」だそうだから、あまりそういう読み方をしてしまうと礼を失することになろう。破綻には破綻なりの礼儀があるのである、きっと。
ともかく、井上の歌の中で「海」が燃えることは今までにもあった。

おちついておやすみなさい きみのいるこの車窓から海がえるよ
炎えている海を見つめて高らかに叫べ重力「サラバワクセイ」
(「そのあかりのもとで、おやすみ」)

 海が燃えるのはわかりやすく詩的であるが、海沿いの道が燃えてしまうと詩的というよりはまず困ってしまう。僕は道が燃えているのを見たことはないが(海だってないが)、家が燃えたり森が燃えたりするのとはまた別な次元で大変なことである。もちろん本当にそこいらの道が燃えているわけではないのだろうが(ときに写実はこころのかたき!)、それにしても道が燃えているのかどうなのか言葉の上でもよくわからない。「海道の」の「の」が主格の「が」に当たる格助詞であれば海道が燃えていてもいいのだが、単に連体修飾格をつくる「の」だとすると「海道の」は単に「燃えるもえてゆくくろまつ」の位置を示すだけのフレーズともとれる。
道そのものが燃えているのではなく海沿いの道沿いに生えているクロマツが燃えているというのならだいぶ景がとりやすいのだが、しかし道沿いのクロマツが燃えているのも道そのものが燃えているのも、同じくらい困った事態である。だとすると「海道の」の「の」が主格であるかどうかはそこまで重大な欠陥ということもなさそうである。「海道」そのものが燃えているように見えるくらい「海道のくろまつ」が燃えている、という折衷的な解釈がいちばん好ましいだろう。

 そこまで「の」の解釈に惑わされたのは、続く「燃えるもえてゆく」の反復がよくわからないからである。これをたとえば「燃えるくろまつもえてゆくくろまつ」とでもすれば反復技法がよりわかりやすくなるし、何より下句の異様な破調がだいぶ収まりよくなると思うのだが、あくまでこの歌は「燃えるもえてゆくくろまつ」である。
 韻律のことをもう少し言えば、初句七音のキャッチフレーズ的な軽妙さで「ときに写実はこころのかたき」と切り込んできて、三句目「海道の」と座りのいい五音が続くまではまだ破綻がないのであるが、「燃えるもえて/ゆくくろまつ」という句またがりと見ても六・六の下句字足らずで一気に破綻がおとずれる。「もえる」「もえて」とモエという音が連打されてのち、「ゆくくろまつ」のク音の重なりを経て、不安定なまま不安定なりに流れをもって、「くろまつ」という名詞に収斂されていく。収斂されはするのだけれど、韻律面・音声面の不安定さは解消されないままだ。その不安定さ、座りの悪さはそのまま、「こころのかたき」にされたままの「写実」はどこへ行ったのかということや、「くろまつ」が海道で燃えっぱなしになっていることの、なにもかも放置されたままの不安感に通じている。いくら海沿いの道とはいえ、燃えているくろまつを放置するのはいかがなものか。
 この不安定感が「燃えるくろまつもえているくろまつ」の字余りでは出ない。体言止めに体言止めを重ねるという下句は、それはそれで反復として効果的でもあるのだけれど、くろまつという名詞が強調されすぎてしまって、炎の中で黒焦げになっていく樹木の影ばかりが視覚に訴えかけてきて、海道の向こうにとおく見えていた海や「こころのかたき」にされてしまった写実がよく見えなくなってしまう。

あくまでこの歌においては「燃える」「もえてゆく」という動詞が重なって出てくることにより、一首中にくろまつの炎上という事象の展開、さらには一個の時間性が導入されねばならなかった。「燃える」「もえてゆく」。炎上をどうすることもできず、ただ「燃える」が「もえてゆく」に移行していくのを見ていることしかできない〈わたし〉。そのどうしようもない時間は、そのまま世界を背負い、包摂しようとしてきた〈わたし〉の破綻の時間でもある。
もしかすると「もえてゆくくろまつ」は破綻してゆく〈わたし〉そのものであるのかも知れないし、そして「もえてゆくくろまつ」を見ていることしかできない〈わたし〉の無力感や無念さは、そのまま「こころのかたき」たる「写実」の無力さや無念さにまで通じているのかも知れない。そこに破綻を見てしまう僕自身もまた破綻しているのだから、「かも知れない」というこの先は、なにも言えないのだけれど。(了)
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