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「率」創刊号

○同人による短歌連作

「クレド」川島信敬
「手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)」瀬戸夏子
「アンコールがあればあなたは二度生きられる」平岡直子
「名無しのサンバ」松永洋平
「Lolita-Complex-Complex」吉田隼人
「数に入れる鳥」吉田竜宇

○企画 「自選歌5首への批評」

ゲスト評論/我妻俊樹、生沼義朗、大森静佳、黒瀬珂瀾、フラワーしげる、山田航
同人評論/瀬戸夏子、平岡直子、吉田隼人

これから書くことは、一種の自己検証の試みと見做されるかもしれない。しかし、筆者自身の、出発にあたっての感情は、いますこし客観的な立場のそれであって、他者の制作に対してものを言う態度で、自作を検討したいと思っている。
 (…)短詩型文学の現況と将来について考察をめぐらすにあたって、ここでわたしの選んだ方法は、無謀と言ってさしつかえない。不用意とそしられても抗弁しにくいのである。理由はいくつかある。
 第一に、自作自注の類いで、成功しているものはほとんどない。『作歌四十年』を斎藤茂吉が生前公刊しなかったのは故ないことではなかった、経験的に言って、自歌自註を読まされたあと味は、まことに悪い。手放しの自讃は、さすがに誰しも抑制しているが、底に動く自讃あるいは自己弁護の心理は、見まごうべくもないのだから、余計にやり切れない。
第二に、作品は、公表されることによって読者を作るが、同時に、読者が作品の一部分を形成する。ということは、既に公表された作品は、作者の専有ではない。かりに一首の歌に註釈を加えるにしても、読者の数だけ註釈は異なって在る筈である。従って、作者が自歌自註を書くとは、この世に可能なかぎりのさまざまな註解のうちの一例にすぎないのである。ところが、自歌自註の筆者の大ていは、おのれこそ最もよく作品の背景を知り、作品の価値を評価し得るのだという錯覚を抱いている。よほど、自戒しても、右の錯覚からは逃れられないだろうと思える。
いずれにせよ、困難な作業だとは自覚している。三人称で自伝を書いたといわれるG・ヴィーコのように三人称で書ければそれにこしたことはない。
岡井隆「現代短歌の存在理由――自己検証の試み」『韻律とモチーフ』より引用

自己の歌への評や解説が愚かしいものであり、余分なものにすぎず、作品や作家の神秘性を剥いでしまうという向きはいぜん強い。その一方で、短歌はいわゆる「批評と歌とがセット」であるという特殊なジャンルでもある。歌で「自己」を歌う以上に、その批評にも自己の主張は色濃くあらわれる。しかし、自己こそが他者であるというテーゼもまた他方で存在する。歌における自己は本当に「自己」であるといえるだろうか(いわゆる<私>性にまつわる問題系)。
批評の言葉は基本的に他人の作品に向けられ、他人の作品を評した言葉に「自己」が表出される。むろん、その「自己」とはなにがしかの価値観や時代の影響を受けずにはいられない。(その意味で、「公平」な批評や「一般的」な批評は存在しえるだろうか。無色透明で公平な主体など、比喩的に言えば「ある時期の裕福な白人のエリート男性、あるいはそれに無意識的に同化しようとしている階層や性別や人種を問わない人々」にしか存在しえないし、その比喩がいかに滑稽なものであり、また現況からかけ離れているかを思えば、おそらくそれは残念ながら今後も達成されることはないだろう。)無色透明な批評の主体が不可能であり、万人に共通する価値観の獲得が絶望的である昨今において、歌の批評がどういった形で、まだかろうじて可能であるかを再考せんとするため、この企画は持ち上がった。
この企画では「自選歌5首」に対する「解説」ではなく「批評」を依頼させていただいた。たとえばある一人の歌人(たとえば斎藤茂吉など)を対象として「5首選」を行う場合、その対象となる歌人へのそれぞれの立ち位置がクローズアップされてしまいかねない可能性が生じるため、この企画ではそれを避けた(乱暴な言い方になってしまうが、ポジション・トークに近づいてしまいかねない危険性をなくすためとも言えるかもしれない)。また、それぞれが好ましく思っている歌人の歌から「5首選」したものを評していただく企画(ある人はたとえば岡本かの子、ある人はたとえば加藤治郎など)にすれば、企画の焦点がぶれてしまいかねないため、これも却下された。最終的に、この企画の意図を実現するために残されていたのが、悪名高い「自歌自註」の形に近いもの(しかしながら「解説」ではなく「批評」)となってしまったのは、私たちがあまりに事態を深刻にとらえすぎているからだろうか。否、という思いのまま突き進んできた企画ではあるが、とはいえ、この困難な企画に御参加いただいたゲストの方々には心から感謝を申し上げたい。また、作者としてのスタンスから参加を辞退いただいた方々、拒否された方々、その他の事情によって辞退された方々にもお礼を申し上げたい。この企画そのものが辞退された方々のそれぞれの「作者としてのスタンス」によってもまた支えられていると感じるからである。
(企画責任・瀬戸夏子、平岡直子)

2012年5月6日発行/A5版/102P/500円
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月刊 吉田隼人 3月号:おっぱいから皮膚へ

おっぱいのせいで内面的なものがうまれくる ここ ここにも皮膚が
(山中千瀬「さよならうどん博士」『早稲田短歌41号』)


 おっぱいを指す表現はあまりに多い。多いのだけれど、そこには何か同じ意味=方向性があるようでもある。それはたとえば女性性の象徴であり、女性の身体性の突端であり、豊饒の象徴であり、男性の欲望を一手に引き受けるとともにそれを反照しもする対象aであり、あらゆる哺乳動物の生命の源であり、単に重くてかさばる脂肪の塊である。

 かつてこの山中を発端に、学生短歌会の一部関係者がツイッター上で「おっぱい短歌」と称する馬鹿騒ぎを起こしたことがあって、古今東西さまざまな歌人の「おっぱい」や「乳房」を詠んだ歌が次々に紹介されたのだが、基本的にどの歌も上記の問題系に回収されうるというか、少なくとも同じ地平の上に位置していた。喪失されることで迫りくる死の、そしてそれまでの人生における女性性の象徴としてあらわれてくる中城ふみ子の「乳房」にしても、高い象徴性の中で隠喩や換喩といった言葉のハイパーリンクの網の目に回収された塚本邦雄や水原紫苑の「乳房」にしても、与謝野晶子あたりから始まる「おっぱい短歌」の座標空間の中で(負の領域を措定すれば)その位置をおよそ確定できるだろう。
 世代的に山中と近しい『町』の歌人たちに目を向けると、言葉を加速させることでどこまでも重みを引き揚げていく瀬戸夏子の「相思相愛おめでとう ミュージック・オブ・ポップコーンおよびバラバラ死体のケーキが乳房」だったり、言葉と具体的事物とのあいだの境界を意図的に曖昧化することで日常通用の言葉を失効させる望月裕二郎の「ねがいから鼻をとおしてなあ牛よおっぱいはここであっているのか」など、単純な身体の問題系から離れた「おっぱい/乳房」が見られないことはない。それでも、結局そこで問題になっているのは言葉としての「おっぱい/乳房」であって、その意味でここにある「おっぱい」は塚本・水原ラインの延長線上に捉えてもよさそうだ。

 ここに来てようやく山中の掲出歌に至るのであるが、ここで試みられているのは「おっぱい」の身体性/言語性の問い直しという、こう言ってよければ「おっぱい短歌のコペルニクス的転回」のような作業である。
 「おっぱい」には生・性・死・愛といった過剰な意味が負わされていき、さらにそこに比喩という言語的問題が重ねられることでいよいよ「おっぱい」は重みを増していく。その動きに対する性急な反動として瀬戸や望月のいう「乳房」や「おっぱい」は意味を一気に奪い去られることで異常に軽量化され、もはや「おっぱい」「乳房」という文字だけがそこにあるようですらある。重すぎるおっぱいも軽すぎるおっぱいも不便なだけだ、とでも言わんばかりに、山中は「おっぱい」にまつわる過剰な意味付けのプロセスそのものを問題化することで、短歌の文脈に「おっぱい」を回収しなおそうとしているのだ。

 山中には「おっぱいの役割は〈やわらかい〉だけでいい 夏服の白のやさしさ」という作もあるが、このあたりまさに先行する「おっぱい短歌」への宣戦布告といった観がある。掲出歌にせよこの歌にせよ、山中が「おっぱい」を詠みこもうとすると決まって歌の方が字足らずになってしまうというような印象を受けるのだが、これもひょっとすると先行する歌人たちの手になる、安定した韻律を基盤とすることで短歌的対象としての「おっぱい」に様々な意味を負わせていくという一首のパターン化した手つきに対するアンチテーゼとしての意図が込められているのかも知れない。女性性なり母性なり男性の欲望なりその哀しさなり、何かしらの意味を負わされた「重いおっぱい」がある程度の安定性をもつのに対し、その意味を問い直されたうえで改めて別個の意味を担わされつつある山中の「おっぱい」は、どこか不安定なものに見えるのも当然であるだろう。

 かように役割の再措定をおこなうだけでは飽き足らず、山中はさらに「おっぱい」に意味や役割が付与されていくプロセスそのものを解体し、再構成してしまう。それが掲出歌である。
 身体性(あるいはそれを担わされた言葉)としての「おっぱい」に先行して、そこに負わされる意味や役割や思想や心情といった「内面」がある。短歌を作る上で主体となるのは「内面」の側であり、身体の一部位たる「おっぱい」はあくまで歌の中に取り上げられる客体にすぎなかった。
 そうした二元論的な構図をまず山中は逆転させ、「おっぱい」が原因となって「内面」が生じるという、因果関係の転倒をおこなう。とはいえ、それだけでは足りない。身体性だなんだと言っても、結局その身体を捉える「内面」が短歌においては圧倒的に優位を占めているという構図がある。結局、立場を逆転させたところで同じ二元論的構図に固執しているのには変わりないのであって、それでは「おっぱい」を既存の短歌的座標から解放することにはならない。

 そこで持ち込まれるのが「皮膚」である。「おっぱい」と「内面」を形成する、その二元論的構図を確定しようとする境界線。第一義的にはそれこそが「皮膚」である。しかしこの歌の中で捉えられる「皮膚」は境界線から境界面へと変貌を遂げていく。おっぱいと内面、身体と精神、客体と主体……といったものを裁断していく「線」から、それらを同じ平面上に等価に還元してしまう「面」へ。「おっぱい」も「内面」も、結局は「皮膚」という巨大な平面が折り畳まれたり重ね合わされたり皺になったり襞になったりすることで生じる、いわば小波のようなものであって、きわめて可変的なものである。
 さらに話を拡げてしまえば「おっぱい」も「内面」も、〈われ〉も〈世界〉も、全ては一個の巨大な「皮膚」の表面で生成されたり展開されたりする〈襞〉の変転にすぎない。およそ我々が境界線によって既に区分されてしまって変更が効かないと思い込んでいるありとあらゆる事物が、実はきわめて可変的で折り畳んだり展いたりできる同一平面上の〈襞〉だという、これはドゥルーズがライプニッツやフーコーの哲学、あるいはミショーなどの詩作品・絵画作品を読み解いていく過程で見出したコンセプトであるけれども、山中の短歌世界もおよそこうしたコンセプトのもとに成り立っているように思われる。

  (ぼくたちは全ての物語の模倣)雪の降る日に手をつないだの
  こわされるほうのかかりに任じられ少女たち、おそろいの夢たち
  カーテンとドレスはちがう 熟れていくからだに巻き付けたってちがうの
  ユリの花のめしべおしべおしべおしべ……なんでも溶かす水は理科室
  相似形の影を踏み合いこれからもあたしたちひとりひとりがひとり
  こっぱみじん みじんこ しんこうしば しばし待てば君よりの駅につきます
  あれは製紙工場の煙なんです。みんなが上に行く用でなくて

「わたし」と「あなた」の区別に乏しい「あたしたち」「少女たち」「ぼくたち」といった交換可能な人物像は、自他の差異が結局は皮膚上の襞に過ぎないと知っているからこそのものだろう。男女の性差や恋愛も、歴史や物語も、人間と動物も、何なら「生と死」さえも、「展いたり畳んだりできる襞」から生じた作用にまで還元されていく。特にその折句への偏執において最大限に発揮される異様なまでの句割れ・句またがりにも、5・7・5・7・7の31音をひとつの堅固な一行詩と見たり、逆に一句ごとにぶつ切れになった五つのパーツの集積と見たりするのではなく、可塑的な一枚の布、一枚の皮膚と見ているからこその韻律感覚であろう。主体と客体、我と汝、男と女、雄と雌、歴史と物語、人間と動植物、生者と死者……これらの境界線は破壊したり、無効化したり、転倒させたり、侵犯したりすれば、むしろ「境界線の不在」として存在感を増していく。そこで山中は境界線などないのだと、そこにあるのは展げてしまえば一枚の皮膚になる無数の〈襞〉にすぎないのだと静かに喝破し、無邪気な子供のふりをして好き勝手に展開したり重畳したりすることで世界のアレンジメントをいつのまにか作り変えてしまうのだ。あたかも世界という巨大な皮膚で、ドゥルーズがライプニッツ論『襞』で用いた比喩を借りれば、まさに「日本の折り紙遊び」をしているかのように。
 山中の短歌に見られる特異な身体性(身体なき身体性とでも呼ぶべきだろうか……個別の身体へと還元されない非人称的な身体性)やさまざまな境界の曖昧さ、あるいは言語感覚といった特徴を読み解いていく鍵が、恐らくはこの「おっぱいから皮膚へ」向かう一首の中に見出される、といっても言い過ぎではないだろう。(了)

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また、新宿の紀伊國屋書店ではすでに販売を開始していただいています。
 



※なお「率」創刊号及び2号は品切れです。

月刊 吉田隼人 2月号:雪が降ったら傘をささねばならない(のか?)

雪に傘、あはれむやみにあかるくて生きて負ふ苦をわれはうたがふ(小池光『バルサの翼』)


 雪の日に雪の名歌が思い出されるのは当然のことだ。むしろ真夏の日差しのさなか、唐突な啓示のように響きわたる一首こそ、真に雪の名歌と呼ぶに値する。
 僕にとってこの一首がまさにそれだった。「名歌」といって紹介されたのは大学に入ってすぐだったが、そのときは別にさしたる感動もなく字面だけを眺めて終わった。それが二十歳の夏。晩冬を舞台にした能の《求塚》を観終えて、冷房の効いたうすぐらい講義室を出ると、一気に炸裂する白い真夏の光。映像の中の能舞台に確かに融け残って見えていた残雪は、もちろん焼けつくような初夏のキャンパスのどこにも見当たらなかった。その落差と暑さとまぶしさとにくらくらと目眩を起こしながら、そのとき僕の頭蓋の中には確かにこの歌がガンガンと響きわたっていたのだ。「雪に傘、」「雪に傘、」「雪に傘、」……。

 「雪に傘、」。異様なそっけなさである。一首中に具象物らしい具象物はこれしかない。しかしこのあまりに普通な名詞二つを「に」という助詞で連結し、そのあとに読点をひとつ打つというそれだけのことで、どれだけ豊かな空間が立ちあげられていることか。
 「雪に傘、」だからこそ空間が立ち上がるのであって、これはもちろん「傘に雪、」では絶対にいけない。雨傘の黒い表面に雪の結晶がちりばめられるミクロな情景もそれはそれで魅力的だろうが、そこに冬という空間は立ち上がらない。「雪に傘、」。降りしきる粉雪に向けて傘をさしむける。白く茫洋とかすんだ雪雲の空に向けて、あるいは降ったそばからぐずぐずと融けて雪が水になった地面に向けて、突き刺すように傘をさしむけ、それがばさっと音を立てて花のように開く。
 「雪に傘、」。「梅に鶯」。「糠に釘(ん?)」。花札か浮世絵か、あまりに当然のとりあわせ。一個の傘が雪空に向けて開く垂直的な空間は、しかし浮世絵や花札の絵柄のようにどこか平面的に眺められてもいる。どこがどうねじくれたのか、三次元的空間と二次元的空間とがつながってしまっている。他のジャンルではなかなか難しい、短歌ならではの空間の立ち上げ方である。僕はどこにいるのか。傘はどこで開くのか。
 「雪に傘、」。手術台の上の蝙蝠傘とミシンではない。当然のとりあわせ。雪が降っているのだ。傘をささずにいてどうする。「雪はまひるの眉かざらむにひとが傘さすならわれも傘をささうよ(塚本邦雄『感幻樂』)」。あの塚本でさえがこうなのだ。雪の日に傘をさしているのはあなた一人だけではない。僕ひとりだけでもない。この冬の空間に、傘は無数に開いている。その傘を咲かせているのは誰なのか。無数の傘を咲かせるのは誰だ。無数の人々。顔の見えないあまりにもたくさんの人間たちが、それぞれに実存し、雪に向かって傘をさしているのだ。それはそうだろう。雪が降っているのだから。傘をささねばならない。「ひとが傘さすならわれも傘をささうよ」。そうだ。人間の存在なんて、共同存在なんて、共存なんて、そんなものだ。雪が降ったら〈ひと〉が傘をさすのだから、〈われ〉もまた傘をささねばならないのだ。

 無数の、顔の見えない〈ひと〉たちが「雪に傘、」をさしむける。無数の傘が、傘だけが、開いていく。開いてはどこかへ向かって進んでいく。雪の日に傘をさしているのは、傘をさしてまで行かねばならない場所がどこかあるからだ。その場所に向けて、無数の傘が開かれ、進んでいく。そして開かれた無数の傘は、その先端を差し向けられて無数の粉雪をちらつかせる白く薄明るい曇天は、そしてどこかを目指して雪のさなかに歩いていく無数の〈ひと〉びとは、「あはれむやみにあかる」いのである。
 あはれ。むやみに。あかるくて。「雪に傘、」と「生きて負ふ苦」に挟まれて、このひらがなの連打はなるほど「あはれむやみにあかる」い。ただ明るいのではない。「あはれ」に「むやみ」に明るいのだ。
あはれ! それは嘆息である。言語化される以前の、何かよくわからない、どうしようもない感情の湧出が「あはれ」となって口から溢れてしまう。その向かう先は美でもあろうし、悲哀でもあろうし、人間にはどうにもできない不条理でもあろうし、代わり映えのしない日常でもあろう。要するに「雪に傘、」への「あはれ」である。そこに読者が聴く音は――少なくとも真夏のあの日、僕の頭蓋の中に響いた音は――「アワレ」であると同時に「アハレ」でもある。あるいは「アファレ」でもあったかも知れない。「ハ」という、「ファ」という、「は」という、抗いようもなく〈われ〉の口から漏れ出てしまった息の音。そのア段の音はそのまま「あはれむやみにあかるくて」と転調しながら、ラ行・マ行・ヤ行・カ行といったアクセントになる音でうねり、流れを変えられながらも、異様な明るさへと展開していく。
 そして「むやみに」明るいのだ。無闇。それは明るいであろうよ。闇が無いのだから。どこもかしこも明るいのである。どこかに闇があってもよさそうなものだが、どこを見ても明るいのである。なにせ今日の雪はどこにでも降りそそぐのだから。その雪をめがけて、雪を降らせる白くほの明るい空をめがけて、傘をさした無数のひとびとは無闇と明るいそのなかで、無数の行き先へと向かうのだから。「むやみに」明るいのでは、もうどうしようもない。むやみに眠いときも、むやみに泣けてくるときも、むやみに銃を乱射しているときも、たいがい「むやみ」なときはもう、どうしようもないのだ。たいてい「むやみに○○しないでください」と言われるのは、多くの場合「むやみ」はどうしようもないがしかし禁止しなければならないものだからだ。「むやみにあかる」い人というのも困りものだろう。ただ明るいだけでは済まないという気がする。下手すればそれはもはや病気である。
 そんなわけで「むやみにあかる」いのはなるほど困りものなのだが、しかし、「むやみ」である以上どうしようもない。ハイデガー流にいえば存在の本質さえ開示されてしまうような、そんな異様なあかるみである。そんな異様な「あはれむやみにあかるくて」の中で、〈ひと〉も〈われ〉ももちろん僕等も、雪に向かって傘をさすのである。それが人間の存在なのだ。あはれ、どうしようもない。

 その、どうしようもない明るさの中で、〈われ〉は「生きて負ふ苦」を疑ってしまう。仕方ないだろうよ。むやみにあかるいんだもの。どこにも闇がないのだ。その明るみのなかで無数に傘をさして無数の行き先に向かう無数の〈ひと〉びとの、その全てが一個一個の実存であって、ひとりひとりがその「人生」とやらを、すなわち背後霊のような「生きて負ふ苦」を――あるいは二宮金次郎像の薪のように「生きて負ふ苦」を「負ふ」ているなんて、とても信じられないでしょう。それは「生」すなわち「苦」に違いないだろうけれど。でも、傘をさして道をゆく、あの〈ひと〉も、この〈ひと〉も、みんな〈われ〉と同じように「生きて」いるし、「苦」を背負っているなんて。そんなことを考え始めると気が変になりそうだ。そこにも、ここにも、あそこにも「生きて負ふ苦」がひしめいている筈があってたまるか。だって、こんなに明るいのに!
 疑うがいい。存分に、気の済むまで「われはうたがふ」がいいよ。今日は雪が降って、こんなに明るいのだもの。その明るい雪に向かって開かれている傘たちの、それぞれの下にひとつひとつの「生」が、ましてやひとつひとつの「生きて負ふ苦」が隠されているとは到底思えない。こうして傘をさしている一人たる〈われ〉だって、こんな「無=闇」な明るさの中では、「苦」としての「生」を負わされているような気がしなくなるだろう。
 疑うがいいよ。疑って、疑って、疑いぬくがいいよ。たぶん同じような雪の降る日に暖炉の前で、恐らくこれまで人類が誰もしたことがなかったというぐらい徹底的に「生きて負ふ苦」を、「生」を、「雪」を、「傘」を、「傘をさす〈ひと〉」を、「われ」を、あらゆるものを疑ってみせた或るフランス人青年の手にかかっても、その「うたがふ〈われ〉」――それをのちの人々はラテン語でコギトと呼んだのだけれど――だけはどうしようもなく根雪のように消残(けのこ)ってしまうのだから。そして消残った雪が薄汚れていくように、疑っていた〈われ〉もいずれまた「生=存」の、すなわち「生きることと存在すること」の苦痛に汚されていくのだから。

 かくて、異様な「むやみ」な明るさのさなかに晒されても、雪が降ったら〈ひと〉は誰もが傘をさす。それは生存の苦痛を一瞬でも疑義に付してしまうような「あかるさ」でもあるのだけれど、しかし同時に「生きて負ふ苦」そのものでもあるのだ。雪の中で傘をさしている〈ひと〉は、行かねばならない行き先があるから、しかし雪に直接降られてしまったら風邪をひくかも知れないから(これも「生きて負ふ苦」だ)、面倒だなぁとか重いなぁとか嵩張るなぁとか思いながらも、こうしてみんな仕方なく傘をさして歩いている。幻を感じることで樂をかなでる、などという大仰な題名を歌集につけたあの魔王のような塚本邦雄でさえが「雪はまひるの眉かざらむに」と無用者の美へと未練を残しつつも、しかし「ひとが傘さすならわれも傘をささうよ」と、多数派の〈ひと〉の中に埋没していったではないか。やはり雪が降ったら傘をささねばならない。それこそがわれわれ人間の「生きて負ふ苦」である。
 しかしそんな「生きて負ふ苦」そのもののような、雪の日に傘をさして道をゆく〈ひと〉びとはどうしようもなく正しいのだけれど、そのどうしようもない正しさを〈われ〉に疑わせてしまうほどに今日はあかるいのだ。「むやみ」な明るさのなかで、人間の「雪が降ったら傘をささねばならない」というどうしようもない正しさは懐疑に晒される。たとえそれが「あはれ」という嘆息の間に過ぎない、一瞬の、今日の雪のように降ったそばから消えてしまう、はかない疑いだったとしても。

 人間の「生きて負ふ苦」を、「雪が降ったら傘をささねばならない」というどうしようもない正しさを、この異様なあかるみのなかで「雪が降ったら傘をささねばならない、のか?」と疑ってしまう〈われ〉の当惑した姿は、正しくどうしようもない人間の存在そのものである。(了)
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